おとなになるということ
2026年6月6日
私たち家族の暮らす男木島は人口が100人ちょっとで、あとは猫と猪と鶏たちなどが暮らす場所です。風光明媚という感はありませんが、人が少ないこともあって自然たっぷりの暮らしをしています。猫島として知られていますが、実は私のせいで猫や人間よりも鶏の方が多くいます。影響が大きくてごめんなさい。
私たちの暮らしは人間だけを相手にするものではありません。目に見えないもの、言葉が話せないもの、分かりあえないもの、そういう森羅万象がプレイしているゲームに人間も参加しているという認識を私は持っています。そこでゴキゲンにやっていくためには「おとなになる」必要があります。「0か1か」というデジタルな二元論や「話せば分かる」的な理想論は通用しません。ただそこに身体をおいてみて、「自分たち」にとって心地よい場所にするためにどんなアクションをとるべきか、そしてとらないべきかを考え続けます。この「自分たち」の範囲をどこまで広げられるかが腕の見せ所です。ちょっとずつしか動かないし、面倒くさくて時間がかかる仕事ですが、だからこそおとなにしかできないのです。重機を使ってコンクリートで固めて完成よかったね、というのは異世界の話です。なぜなら暮らしに「完成」という日は決して来ないからです。
そこにあるのは多種多様なプレイヤーによるアクションと他者のリアクション、そしてそれらが織りなす無限にも思えるフィードバックのループがあるだけです。「土から離れては生きられないのよ」というのは天空の城ラピュタのシータのセリフですが、この「土」は物理的な足場という意味ではなく、このフィードバックループの束のことであり、そこでプレイされるゲームのことです。そこから「イチ抜けた」と飛び去るのは幼稚なこども(=ムスカ)のやることで、おとな(=シータ)は面倒でも傷つきながらでもそのゲームをプレイし続けます。そのゲームには報酬や目的はなく、ゲームが続いていくことこそが目的だからです。おとなってなかなかいいものです。